2008年08月13日
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下高井戸と世田谷・異質なる暗渠文化 第1回 『世田谷暗渠は生きている』

Written By: 川俣 晶連絡先

 桜上水Confidentialさんに教えていただいた「経堂小学校東の南北に2本並んだ開渠」を見に行く散歩を行ったところ、非常に多くのことが分かってきました。それによって分かったのは、下高井戸と世田谷の暗渠文化は全く異質であり、下高井戸の常識と世田谷の常識は全く相容れないという事実です。つまり、下高井戸の常識で世田谷の暗渠を語ることは全く不適切だったということです。話としては長くなるので、3回連載で書きます。

定義 §

 このシリーズは杉並区の一部に過ぎない下高井戸と世田谷区を対比していますが、これは便宜上の表現であって、実際には下高井戸と、私が実際に歩いている世田谷区内の北部地域(主に松原、赤堤、桜上水、上北沢等)の対比となります。単純に「赤堤」のような特定の地名で限定できないために、便宜上世田谷と称しているという意味です。

最近暗渠化された3本の水路 §

 下高井戸には、少なくとも私が知る限り、ここ10年程度の範囲内で暗渠化された水路はありません。おそらく、遅くとも昭和40年代までに神田川以外の全ての水路は暗渠化されるか、埋められていると思います。(追記、「北沢川 桜上水支流の支流の更に上流部はここだ! 現存する「ドブ板」発見せり!!」に書いた水路の開渠部分は「下高井戸」の地理的範囲に入っている可能性があり、そこだけ暗渠化されない例外かもしれません)

 一方、世田谷の方では私が見た範囲内で少なくとも3件の水路が、ここ数年という短い期間で新規に蓋をされています。しかも、蓋をする方法が3件とも異なっています。

松原の事例 §

 世田谷区松原に現存するドブ板・道路としての使用価値がない短い距離にそれはある今時ドブ板ができるのか!? 世田谷区松原の残存ドブ板は実は残存ではなく新規作成だった!?の紹介した事例です。

松原の事例

 コンクリートの板を並べて載せることで蓋をしています。

 これは、昭和40年代の下高井戸住人が「ドブ板」と俗称した方式であり、それに則り、私が「ドブ板」と称している方法でもあります。

 少なくとも2001年以降に、現在の形に蓋をされています。

経堂小学校東・北側の事例 §

経堂小学校東・北側の事例

 なんらかの方法で蓋をした上に砂利を敷いてあります。

 地図には水路として記載されているにも関わらず実際は暗渠であること、あまり汚れが見られないこと、私自身が洋服の青山に行く途中で川が白い砂利になっているのに驚いた記憶があることから、少なくともここ数年以内に暗渠化されたものと思います。

経堂小学校東・南側の事例 §

経堂小学校東・南側の事例

 白く塗られた鉄板(?)で蓋をされています。

 この水路については、北側の水路よりも小さく目立たないためか私の記憶になく(だから、もう1本あると知って驚いた)、私自身の証言として最近蓋をされたとは言えません。しかし、他の理由は北側と同じなので、これもここ数年に蓋をされたと考えて良いように思います。

この項のまとめ §

 以上からいくつかの推測が可能です。

  • 水路に蓋をするという出来事は、下高井戸においては過ぎ去った遠い過去の1ページであって、今時起きるはずもない出来事だが、世田谷区内では今でも日常的に発生している
  • 下高井戸において水路に蓋をする手法はコンクリートの板を渡す方法だけで統一されていた (その後、一部を除きアスファルトで舗装された) が、世田谷区において手法は統一されておらず、さほど地理的、時期的に離れていない箇所でも別の手法が使われている

 ちなみに、世田谷で手法が統一されていない理由は分かりません。少なくとも、下高井戸で暗渠化が行われた時代よりも技術は進歩していると思われるため、選択肢は増えている可能性があります。

次回予告 §

 というわけで、これだけでも下高井戸と世田谷の水路文化は別物と言って良いぐらい異質です。何せ、過去の歴史か、現在進行形の変化か、という1点だけに限っても、向き合う態度は全くの別物です、しかし、話はまだ終わりません。更に、これらの水路の上流部を歩いた私は、驚くべきものを目撃したのです。ええ、もちろん下高井戸の常識で驚いただけで、世田谷の常識では何ら珍しいことではなかったのでしょう。

 続きます。

下高井戸周辺史雑記